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『横死した独眼竜政宗の父伊達輝宗について』 渡邊敏和

 寄稿者略歴

1 渡邊敏和(わたなべ としかず)
  昭和31年、山形県東置賜郡川西町上小松生まれ。山形県立長井工業
  高校卒業。平成17、18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗
  学会理事。



『横死した独眼竜政宗の父伊達輝宗について』
 ー18歳の長子政宗の能力を高く評価し、家督相続したー

 令和7年6月16日、米沢日報デジタル版にて、伊達輝宗(1544~85)が嫡子政宗に名付けた初代政宗についてを纏めて発表した。それは伊達家の本拠である奥州伊達郡(現在の福島県伊達郡)から置賜を領していた長井氏(本姓、大江氏)に侵攻して勝利し置賜を領することとなった先祖である儀山政宗についてであった。
 戦国時代、奥州制覇を目指した独眼竜政宗は、先祖で有名な先代儀山政宗の名を受け継いだものである。息子政宗の活躍に隠れて父の輝宗についてはあまり知られていない。このことから伊達輝宗についてまとめてみた。

一、伊達輝宗の誕生
1 天文十三年(1544)に伊達輝宗は出羽国米沢城主である父晴宗と陸奥国(現在の福島県)岩城平城主岩城重隆の娘久保姫の次男として誕生した。
(写真左=仙台市青葉山にある伊達政宗像)

 嫡男の親隆(初め宣隆)は、婚姻の約定により祖父重隆の養嗣子として岩城家を相続した。輝宗の妻は山形城主最上義守の娘義姫(お東の方、保春院、1548~1623)。夫婦の間には永禄十年(1567)に誕生した嫡男藤次郎政宗(幼名、梵天丸)、次男小次郎のほか二女があった。
    
二、輝宗の家督相続
 永禄七年(1564)に輝宗は伊達家の家督を相続した。宿老中野宗時の画策により、不和となっていた父晴宗は、同年、信夫郡杉目(杉妻)城(福島市杉妻町。文禄元、二年ころに太閤秀吉の家臣木村吉清により福島城と改称された)に隠退した。
 この城内には盧舎那仏が祀られていたことから大仏城とも呼ばれていたという。晴宗と夫人栽松院は天正五年(1577)まで杉目城に住み、晴宗は同年12月5日、59歳で死去した。墓所は舟場町宝積寺に葬られた。
 7年に亙って「洞(うつろ)の乱(伊達氏天文の乱 )」で対立した唯一の陸奥守護職となった晴宗の父稙宗は、永禄八年(1565)6月19日に丸森城で病死して78歳の天寿を全うした。稙宗は多くの子女を周辺の武将との婚姻、養嗣子として良好な関係を構築し、陸奥守護を頂点とする緩やかな支配を確立しようとした。
 永禄九年、輝宗は二階堂領を巡り対立していた会津の蘆名氏と和睦する。このとき妹を蘆名盛興に嫁がせた。
 翌年には陸奥国(現在の宮城県)宮城郡の留守顕宗の婿養子に弟政景(1549~1607)を、同十一年に弟昭光(?~1622)を石川晴光の養子。さらに妹を佐竹義重に入嫁させ、弟の盛重(五男)を宮城郡の国分盛氏の名跡を継がせた。祖父稙宗と同じく婚姻、養嗣子により、伊達氏の支配、勢力圏の拡大を図った。
2 輝宗の温厚な性格は家臣の人望を集めたが、祖父稙宗、父晴宗に仕えた宿老中野宗時の専横を許すこととなった。
のちに宗時は従士遠藤基信(1532~85)が連歌、才覚に優れ輝宗に取立てられると、権力の維持から基信の暗殺を図るなどで輝宗から疎まれて謀反を計画した。
 また、輝宗は、遠方の大名織田、北条、上杉、佐竹などと友好関係を結んでいる。
(写真右=米沢城址内の伊達政宗生誕地の石碑)
 天正元年(1573)10月下旬に将軍足利義昭を追放し天下人になった織田信長に鷹を贈って、その答礼状が12月28日付で信長から輝宗に届くなど、度々、書状の交流があった。
 
三、宿老中野宗時の謀反
 元亀元年(1570)4月4日に宿老中野宗時、宿老牧野家の養嗣子に入れた実子の牧野久仲(宗仲)らが輝宗への謀反(元亀の変)を企てていると、新田遠江景綱が洩らした嫡男義直を捕らえて輝宗に届けて言上し発覚した。
 計画が知られた宗時、宗仲父子は、その夜、米沢の屋敷などに放火し、米沢城下は焼失した。城は「山上」のため無事と「伊達治家記録」にある。謀反の一党は牧野の居城小松城(現在の川西町中小松)に籠り、5日に輝宗方と戦った。戦いでは61歳の小梁川宗秀らが討死したが、新田勢百余騎が力戦して城を落した。宗時父子らは500余騎を引き連れ新宿(二井宿)方面に逃走し、山脈を越え刈田郡の宮を通って相馬領に向かう。
3 宮の河原では、亘理元宗(伊達晴宗の弟で、亘理家の養嗣子・元安斎と号す。1530~94)、重宗父子、柴田郡の砂金貞常らと合戦となり、宗時父子は命からがら相馬に逃れたという。
(写真左=川西町中小松新山公園に建てられた「小松城跡の碑」)
 宗時父子は急な発覚で妻子は米沢に残したままで、殺そうとした輝宗は遠藤基信の進言により許し、一旦は謀反に与した者どもも奉公を続けさせている。しかし新田義直は切腹させ、弟義綱に家督相続させた。
 9月下旬、宗時らの逃走を許した高畠城主小梁川盛宗、白石城主白石宗利、刈田郡宮城主宮内宗忠、伊具郡角田城主田手宗光らの赦免を願う父晴宗から再三の詫言と、基信の諌言により許した。これにより、遠藤基信が輝宗の第一の重臣となり、輝宗は伊達一門、家臣たちの支配力を強めていった。宗時は相馬から会津に移り死去し、宗仲は会津、相馬、岩城、相馬と流浪している。戦場となった小松城址(現、新山公園)には、昭和12年(1937)6月に中小松有志による「小松城址の碑」が建てられた。

四、最上領に出陣
 元亀元年(1570)4月23日、最上氏の家督相続に伴う戦いに介入して上山に出陣した。最上義守、義光父子が和解し、義光(1546~1614)が家督を相続した。天正二年(1574)1月25日に小梁川盛宗が最上領上山を攻めた。
 4月には長井中に出陣の陣触れし出兵。5月に、最上義光と父義守、弟義時らと再び対立し、義父義守を救援するため7日に輝宗自ら出馬した。20日に小梁川盛宗を先陣に、二陣伊達宗澄(父晴宗の弟 )、六陣に遠藤基信、七陣旗本という陣容で鉄砲、槍戦さとなった。戦いを続け、6月9日に一旦米沢に帰陣したが、再び7月から9月にかけて出陣している。8月27日に谷地城主の白鳥長久が最上家の内紛を調停して和議が結ばれた。
4 だが11月24日に和議が破れて、義光が、一族らの討伐を始める。その後、輝宗は義光と和睦する。
(写真右=陽林寺内にある伊達稙宗の墓「福島市」)
 この年1月から12月までの輝宗の日記が残されており、日常や周辺の大名の情勢など、多岐に亙る内容が記されている。この年は戦いに明け暮れる一年だった。
 
五、相馬氏との戦い
 天文十八年(1549)に相馬盛胤(もりたね・1529~1601)は、小高城(福島県南相馬市)を拠点に、母(稙宗の長女・屋形御前)の実家で、夫人が稙宗の姪という濃厚な血縁関係にある伊達氏に、分与されたことを口実として伊達領に侵攻し相馬家の勢力拡大を仕掛けてきた。
 弘治四年(1558)には、伊達氏の庶流である角田城の田手宗光を唆して、晴宗から離反を促し、相馬盛胤が晴宗と戦い伊具郡を奪取して、この地方に勢力を伸ばしてきた。
5 永禄九年(1566 )、亘理元宗が相馬盛胤に屈して伊達領に侵攻され、伊具郡の金山(かなやま)と小斎(こさい)両城が陥落して、相馬領となった。これ以後、相馬氏によって金山城が補強・再構築され、城下町も整備された。
(写真左=福島城址に建つ福島県庁)

 金山城は、標高120メートルの山全域(東西400メートル、南北800メートルを城域として、本丸周辺には高さ5メートルの石垣を有する堅固な山城である。 永禄11年(1568)4月3日、伊達郡小島において伊達氏と相馬盛胤と合戦があった。
 元亀元年(1570)には、伊達稙宗が隠居していた丸森城までも、相馬盛胤が攻め落としてこの地域を領有した。さらに、伊達氏の本領である伊達、信夫両郡までも相馬勢に侵略されるようになると、伊達氏にとって相馬氏は旧領を取り戻すまで許すことが出来ない仇敵となった。
 天正四年(1576)5月上旬、連年の伊達・信夫両郡へ相馬盛胤の侵入に対して、伊達輝宗が伊達郡東根へ出陣し相馬氏と戦い、敵地へ進撃した。 6月15日、輝宗陣所から二本松城主の畠山義継(?~1585)へ、相馬防戦の為、秋に敵地に攻め入るので加勢を望む旨の使者を遣わした。8月2日、この度の相馬と戦いに際して諸陣一致のため備頭(配下の武将)に連判誓詞を求め、父晴宗ととも輝宗は出陣し、伊具郡に陣所を移した。
 誓詞には、次のような武将・家臣たちが掲載されていた。
   一番 亘理 源五郎(重宗、亘理郡亘理城主)
   二番 泉田 式部大輔(景時)
   三番 田手 式部大輔(宗時、伊具郡角田城主)
   四番 白石右衛門大輔(宗実、刈田郡白石城主)
   五番 宮内 中務大輔(宗忠、刈田郡内親城主)  
      砂金 又次郎(常長、柴田郡川崎)
  (以下、六番から十三番まで中略) 
  十四番 原田 大蔵(宗政)
      富塚 孫兵衛(宗綱、伊達郡森山城主)
  十五番 遠藤 内匠(基信)、浜田 大和
  十六番 伊達 兵部大輔(実元、信夫郡大森城主)
  十七番 御旗本
 10月9日、伊具郡小斎城へ出陣。同日、伊達実元家臣の青木玄蕃允・弾正忠親子が、伊達郡川股に侵入して来た相馬盛胤の軍勢と一戦に及び撃退した事が感状に見える。
 この年、懸田俊宗の謀反で相馬に逃れ、相馬領宇多郡の黒木城主となった藤田晴親の嫡子中務宗元(黒木氏を称し、後に懸田氏)と次男四郎宗和(藤田氏を称す)が、親子不和となり伊達家に帰参した。藤田晴親は伊達稙宗の外孫で伊達郡藤田邑に住み、藤田家を継いで藤田七郎と称した。
 10月ころ、相馬盛胤の婿で、輝宗の従兄弟の田村清顕から和睦の話があった。
 蘆名氏、北条氏も同様の意向だったが輝宗は承知せず、陣所にて年を越した。翌5年春、輝宗従兄弟の葛西左京大夫晴信(生没年不詳)から陣所に加勢が到着し、4月4日には蘆名次郎盛隆(1561~84)からも家臣の須江弾正左衛門光頼が率いる鉄砲足軽が参陣して、相馬領となった金山に押し出す陣容が整った。5月11日に相馬に占領されていた丸森城を巡って激戦を繰り広げ、伊達輝宗は相馬盛胤と伊具郡小斎、金山、丸森、黒木で伊達旧領を奪回するため戦った。
  同六年(1578)に敵対する相馬盛胤が嫡男の義胤(よしたね)に家督を譲り、隠退し、義胤、弟の隆胤らが伊達家との戦いを継承することとなる。だが、相馬氏は、これ以後、衰退の一途を辿ることとなった。
 天正九年(1581)5月15日、15歳となった政宗は 亘理に侵入した相馬義胤の軍勢との戦いに、兵二千を率いた父輝宗に従って出陣した。陸奥国伊具郡(現在の宮城県丸森町)の相馬氏との戦いに政宗は初陣を果たす。この時、14歳の伊達成実や片倉小十郎景綱などの旗本も従軍し、景綱は敵将大河内外記と戦っている。
 輝宗は相馬勢と直接戦うのを避け、相馬軍が過ぎ去った後に、隙をみて村々を攻め落とし、徐々に失った伊達領を回復していった。同十年(1582)、伊達氏は大軍をもって相馬領となっていた伊具郡に侵入し、内応によって小斎城を攻略した。4月には、金津付近で激戦となり、伊達方は佐藤宮内、田子式部、原田大蔵らが戦死したが金津城を陥落させた。同年には伊達輝宗は、兄親隆(宣隆)が養嗣子に入った母の実家の甥岩城常隆(1567~90)に、相馬氏との戦いへの加勢を要請している。
 同十一年2月、相馬氏に奪われていた金山城、丸森城を攻めて、5月に至って丸森城を奪回した。その丸森城には、もと相馬方だった黒木城主で相馬氏から伊達家臣となった黒木宗元に与えられた。この相馬氏との戦いに伊達輝宗、政宗親子に従って従軍した白石宗実(宗綱の孫、1553~99)は敵兵4、5人を討ち取っている。
 同十二年(1584)6月、金山城攻城戦は、金山城が阿武隈川と雉子尾川とが麓を流れる天然の要害であることから、相馬家老臣で城主の中川清忠は籠城を決めた。それに対して政宗は、無理をせず、城の周囲を囲って城方が籠城に堪え切れず、城から討って出たところを、伊達家臣の中島伊勢と原田左馬助が率いる軍勢が打ち破った。このことから、城主の中川清忠が金山城を放棄して逃げ出したところを中島伊勢に討ち取られた。これ以後、この戦いに軍功があった中島伊勢の子宗求の知行地となり、明治に至るまで中島氏が金山城主であった。
 同年夏、田村、石川、佐竹、岩城の四氏が和睦を斡旋するまで、毎年のように伊達輝宗は出馬して、各地を転戦して奪われた伊達領を奪還して回った。

六、嫡男政宗へ家督を譲る
 永禄十年(1567)8月3日、米沢城で伊達輝宗(24歳)、義姫(20歳)夫婦の間に、嫡子(幼名、梵天丸のちの独眼竜政宗)が生まれた。
 梵天丸は5歳のころ疱瘡(天然痘)に罹患して右眼を失明したとされる。天正五年(1577)11月15日、11歳の梵天丸が米沢城で元服した。その時、従弟の伊達時宗丸(後の成実、しげざね・1568~1646)が剣を持ち、政宗九歳からの傅役(養育係)である片倉小十郎景綱(1557~1615)が脇差を捧げて両脇に侍り、前髪を落とす剃刀の役も務めた。輝宗が藤次郎政宗と名付けた。
8 同七年、政宗は陸奥国(現在の福島県)三春城主である田村大膳大夫清顕の息女愛姫(めごひめ、11歳)を娶った。
(写真左=福島 寶積寺 伊達晴宗の墓)
 愛姫の母親は相馬顕胤の娘であるが、その母親の顕胤夫人が、曽祖父伊達稙宗の長女である。愛姫の父親清顕の母親隆顕夫人は稙宗四女であり、愛姫の両親ともに稙宗の孫で従兄弟の関係にあった。伊達、田村、相馬各家は濃密な縁戚関係にあった。
 同十二年(1584 )、輝宗は相馬氏との戦いにて、伊達氏の旧領である伊具郡北部を回復するなど、周辺諸国への攻勢を強めていた。この年10月、41歳の輝宗は、嫡男である政宗の能力を高く評価して期待をかけていて、18歳になった政宗に家督を譲り隠退した。

七、輝宗の最期
 伊達政宗の家督相続の際に、蘆名、佐竹氏に従属していた奥州安達郡(現在の福島県内)塩松(小浜)城主大内定綱が祝賀に訪れ、今後、政宗に属したい旨を言上したが、翌十三年に翻したので居城を攻め大内定綱は城を放棄して二本松城に逃れた。
 城主の畠山義継は政宗からの過酷な条件を受諾して、同年10月8日に斡旋に当った輝宗への御礼言上に陣所安達郡宮森城に訪れた畠山義継と家臣が、退去する際に輝宗を拉致して所領二本松方面に逃れた。突然のことで、成すすべもなく見守り、対岸が二本松領となる阿武隈川河畔の高田原(粟の須)に至り、輝宗は、留守政景、伊達成実ら対して「自身ともども義継を討て」と命じて義継とともに壮烈な最期を遂げた。享年42歳であった。
6 当日夜、輝宗の遺体は小浜城に入り、のちに輝宗の遺体は信夫郡佐原村(福島市)の寿福寺(現在、慈徳寺)で伊達氏の菩提寺資福寺の虎哉宗乙(そういつ、政宗6歳からの師弟関係)を導師として荼毘に付された。
(写真右=資福寺の伊達輝宗墓「高畠町夏刈」)
 遺骨は長井庄(現在の高畠町)夏刈の資福寺に埋葬された。法名は「覚範寺殿性山受心」である。
 同月21日には輝宗の側近遠藤山城守基信(54歳)が殉死した。輝宗の墓所近くに葬られた。翌十四年に政宗は輝宗の菩提を弔うため米沢西方遠山に覚範寺を創建して、虎哉を住持とした。
 
まとめ
 大河ドラマなど戦国武将で「伊達政宗」は人気がある。しかし、その素地を作ったのが、父である輝宗であることは余り知られていない。
 伊達氏は代々、家督相続で家臣、周辺の縁戚大名を巻き込んで戦い、それにより、伊達家は衰退を繰り返した。その経験から輝宗は相馬氏から失地を回復すると、若い政宗に託して隠居した。家中の混乱を回避し、家臣団を温存して政宗が飛躍すること
ができた。現在でも長く権力を維持して、後継問題により衰退する例に暇がない。この文章を現代に生かす参考として頂ければ幸いである。

引用・参考文献
・「山形県の歴史」(山川出版社 1998)
・新版「山形県の歴史散歩」(同前 1993)
・ビジュアル「戦国1000人」(世界文化社 2009)
・鈴木啓「ふくしまの城」(歴史春秋社 2002)
・小林清治「戦国の南奥州」(歴史春秋社 2003)
・小島一男「会津の城」(歴史春秋出版 1998)
・「米沢市史」原始・古代・中世編(米沢市史編さん委員会 1997)
・「米沢市史」資料編1(米沢市史編さん委員会 1985)
・「川西町史」上巻(川西町 1979)